前回は石垣で有名な穴太衆の末裔である粟田建設を訪問しましたが、今回は安土町のボランティアガイドの向井義治さんに現地ガイドをしていただきながらお話を伺いました👀

安土城天主台石垣の「反り」を探しに

安土城再建を夢見る会 副理事長 小川 守

昨年末、安土城天主台の石垣の反りについて可能性を検証するため、穴太衆の末裔 である粟田建設を訪問した(※1)。その結果、当時の技術でも石垣に多少の反りを持たせる 可能性に期待が持てたため、年明け早々安土城跡へ確認に行ってみた。しかし石垣につ いては素人な私、効率良く見学できるよう、安土町のボランティアガイドの向井義治さんに 特別ルートでのガイドをお願いした。向井さんは、ボランティアガイドを務められて30年以 上の超ベテラン。安土山は子供のころからの遊び場だったとのこと。過去 NHK にも出演さ れており、知る人ぞ知るガイドだ。

また、当会の理事長を務める尾崎氏への紹介も兼ねて、前回に続き今回も矢ケ崎先生 にはご同行をお願いした。先生は、歴史的木造建築専門の大学教授であり、今後多くの 面でサポートをいただける方である。

早朝9時15分、安土城の大手門跡前に集合。前日からの冷え込みもあったため、簡単 な自己紹介を済ませ、いよいよ石垣探索開始である。 まずは幅6メートル長さ180mの直線の大手道を上ってゆく。

安土城祉こと安土山は、全体が信長公のお墓でもある。大手道の途中、右手に璁見寺 の仮本堂がある。このお寺は、信長没後に秀吉から命ぜられ、その霊をお守りし続けてい るお寺だ。先ずはお参りを済ませてから登ることとした。向井さんの説明では、この建物は 昭和初期に京都御所にあったものを下賜され移築したとのこと。そのため作りが寺院様 式でない。唐門は無いが、中に入ると柱や梁に使用されている木材(北山杉であろう)の 正目の細かさや仕上げ、床柱の滑らかさや光沢、釘隠しの細工は目をみはるものがある。 柱や梁は触ってみて気持ちがよいのだ。 矢ケ崎先生も専門家として興味津々のご様子。しきりにシャッターを切られていた。

石垣に話を戻そう。 安土城廃城の後、石垣の多くは豊臣秀次の八幡山城や井伊家の彦根城などに転用され ており、麓の方はあまり原型を留めていない。また後世での積み直しがあること、あるい は一部は畑に使用されていたところもあり、現在の形をそのまま信用することは難しい。 そのため、向井さんのガイドに従って、当時のまま残っていると思われる石垣の底部や、 古い積み方が残っている箇所を中心に確認することとした。

大手道の右手、璁見寺の一段下には伝前田利家邸跡がある。よくよく見ると、石垣が 段になっていて継いでいる部分の底部に、反りらしきものを確認できる。平成の大発掘で も底部はそのままで積直しをしておらず、当時のものとのこと。これは幸先が良さそうだ。 そのあとも注意深く見てゆくと、反りらしきものがいくつか確認できた。

比較的 形良く確認できたものは次の通り。
上下方向の反り ; 伝前田利家邸跡、伝武井夕庵邸跡、伝二の丸跡、伝本丸跡 底部水平方向の反り : 伝羽柴秀吉邸跡、天主台跡

以下の写真で、少しでもその感じが伝われば良いのだが。

これらをもって天守台に反りがあったことを決定づけるものではないが、400年以上の時 を超えた今、これら反りの痕跡は私達に何を語りかけているのだろうか。今回の調査で、 石垣の反りの痕跡をいくつか確認できたことは、大きな収穫と言ってよいであろう。

向井さんの話では、石垣は山頂から着手するとのこと。作業の無駄をなくすためだ。 石垣を積みながら、その内側へ上から下へと削った土砂を移し、盛り土をするのである。 それは、天主台から始まり下へ下へと工事を進めたことになる。

主郭内部、黒鉄門より上は比較的大きな石が使用されており、見栄えも良い石垣にな っている。但し、下へ行くほど次第に小型の石が使用されており、石材が不足してくると、

近郷から石材を集め利用しているのが分かるとのこと。安土城の石垣は、墓石や石塔、 石仏、地蔵、五輪塔、石灯籠の一部が使用されていることが有名である。安土城関連の 様々な著書やHPでもよく目にする。そのため、信長は神や仏をも恐れぬ不届き者との烙 印を押されていることは有名だ。

しかし向井さん曰く、 「それは、征服した土地の霊を封じ込めるための重要な意味があんのんと、石材が足ら

なくなったことから仕方なく利用してるという両方の意味があるんや。石も勝手に持ってこ れる訳やのうて、この辺りは奈良の薬師寺の荘園やったが、この荘園制も解体してから持 ってきてる。」 当時の城郭の石垣には、このような墓石などの利用は他にも多くあったことは事実だ。

安土城に使われている石は湖東流紋岩という石で、この近隣でしか採取できないのが 特徴らしい。その使用率は 99.9%という事であり、転用された石は 0.1%にしか過ぎない。し たがって、墓石や石仏、石塔はごくごくわずかという事になる。必ずしも武力に任せて根こ そぎ持ってきたという事は当てはまらないと言えよう。

面白いのは、石臼まで使っている所や、灯篭の傘の部分を逆さにして、大手道の横に かかっている石橋の支えに利用しているものもあった。

こうして石垣の知識が入ってくると、組み方の作法の違いに気が付くようになる。 一部だが角部には算木積みらしきものも確認できた。角部は特に力がかかるため、堅牢 な構造にする必要があるためだ。このことから、算木積みの有効性も、当時から経験的に 確認されつつあったという傍証になると言って良いだろう。

穴太衆だけでなく、信長ゆかりの各地から呼び集められた技術集団が、その技を競い 合った熱気を感じるかのようだ。そして、職人達が目まぐるしく働いている様子が目の前に 浮かんでくるような錯覚に陥るのである。

石垣ファンならずとも、宝探しを楽しむように、ぜひともその多様性や変わった石材を現 地で見つけていただきたい。但し、お墓を気にされる方は足元にご注意を。。。

ここで、「穴太衆」や「穴太積み」について言及しておきたい。 安土城の石垣は、穴太衆が穴太積みという技術を用いて築いたというのが一般化してい るのだが、向井さんの説明では異なっていた。当時はそのような呼称は無く、資料にも出 てこないらしい。今では安土城の石垣は「穴太積み」という言葉は使わなくなり、「野面積 み」に代わっているという。

「穴太衆」という呼称も、安土城築城以降の呼び方のようで、坂本近くの穴太を拠点とし ていた石組み集団が、その技術の高さを買われ、各地の築城に関わるようになってから のことらしい(※2)。

それにしても、人と牛馬の力だけで、数年の短期間にこのような大掛かりな工事を成し 遂げた昔の人の知恵と力には驚愕させられるばかりある。

本来ならば、これで終稿となるのだが、実は続きがある。

ふと、思った。素人が一回訪れただけで、簡単に「反り」のような痕跡が見つかって良い ものなのか?後年の積直しも入っており、それなりの年月が経っているなら、新しいものと 古いものの見分けは正確にできるのだろうか?それに、専門家が今まで取り上げていな いのも不思議だ。安易すぎないか? そう感じた読者もいらっしゃるかも知れない。

そこで、もう少し調査をしてみた。その結果、黒鉄門前の石階段は昭和の初期に積み直 されたものであることが分かった(※3)。発掘当時の黒鉄門周辺の写真から、持ち出された のか崩れたのかは分らないが、底部の2から3段程度しか石垣が残っていないのだ。この ことから、主郭部一帯の石垣は、天主台と伝二の丸の一部を除いて多くの手が入ってい るのは事実だ。伝前田利家邸跡も、発掘当時の写真を見ると、底部4段ほどしか石垣は 残っておらず、反りと明確に断言できないことが分かった(※2)。伝武井夕庵邸跡は当時の 石垣なのだが、古さ故に孕みがあり、反りのように見ている可能性が高い。「孕み」とは、 石垣の重みで年月が経つと一部がせり出してくることだ。 少々残念だが、もっともな結果 でもある。 しかしこれで「反り」が完全否定されたわけでもない。

ここで視点を変えて、天主の建造について想像を巡らせてみたい。 信長の時代は、天主台を作ってから天主の設計を開始したらしい。安土城のように、不 等辺八角形の天主台は、その形が見えてからでないと設計に着手できないのも頷ける。

内藤昌氏の著書「復元安土城」では、「(安土城の)完成 後そう日時を経過しない段階での建築仕様補記の印象 が強い。」としている。これによって、天主指図は完成後 に作成された図面だという主張である。しかしこの場合、 依然として天主の張出し部の解釈が残ってしまう(※1)。 そのため、名古屋工業大学の河田氏は、秀吉に仕えて いた堀金出雲による『石垣築様目録』をもって、「反り」の 可能性を補完し、天主の張り出しを無くせるとしている。 この目録は、安土城直後、天正後期の秀吉の大坂城の 頃までの石垣に関する技法を示したものだ。

また、内藤案では天主一重目(地階)の石蔵の深さを 13.5尺と推定しているのだが、実際はもう少し低かった という可能性も考えられる。すると、天主台の面積はそ の分大きくすることが可能となり、一間分の張り出しをよ り小さくすることも可能である。

『石垣築様目録』による石垣構築技法 (河田氏 2021 年 建築学会大会発表資料より)

一方で、『天守指図』は設計図の写しとして考えた場合はどうだろう。部屋の補記は天 主完成後に追加されたものと考える。

信長としては、「天下布武の総仕上げ・平安楽土の実現」として、天主の意匠には並々 ならぬ思いを込めていたに違いない。親交深かった神父のオルガンティーノからは、教会 建築だけでなく、城、政庁、街造りまで、西洋の様々な建築に関する情報を聞き取ってい たであろう。スケッチ画も手に入れていた可能性は高い。何しろオルガンティーノは建築家でもあった。それ故に、当時の日本人には思いもつかない、奇抜な構造になっていったと 考えても不思議ではない。

 

天守指図二重目の図

棟梁の岡部又右衛門は、それを具体的な形にしなければならない。ことあるごとに信長 に呼ばれ、様々な構想を伝えられていたであろう(施主からのわがままな注文)。そのため、膨大な数の図面を描いては捨てていたと考えら れる。又右衛門としては、時間を稼ぐために比較的早 い段階からから天主の構想図を描き、確定部から図 面に落としていったというのが妥当だろう。とはいえ、 天主台と接する二重目(一階)は、ある程度形が見え てからでないと図面に落としにくい。

ここで、『天守指図』の二重目を見てみると、北面か ら西面にかけて「ゑん(縁)」と示した部分が多いこと が分かる。これを「アソビ」とか「ニゲ」というものと捉 えると、天主の南面と東面を基準として、{ゑん}の大 きさを天主台に合わせ調整することで、天主台との食 い違いを解消した可能性も考えられる。東面も僅かで はあるが調整可能である。効率良い手段だ。 アシタカ氏も同様の考えを持っておられ、彼のホームページで公開されている。(※5)

こう考えると、『天守指図』の解釈がどちらであっても、天主の意匠性を保ちながら張り 出しを小さくできることが分かる。建築の世界では、図面と現場のズレが生じることはまま あることであり、それを現場で調整しながら進める。「現場合わせ」という技法だ。

このように図面を読むことで、当時の設計者や現場技術者の努力と工夫を感じることが できるのは面白い。

最後に、石垣一つでも多くの謎やエピソードが多い安土城。今回特別なルートで我々の 興味にお付き合いいただいたガイドの向井さんには心からお礼を申し上げたい。安土町 ボランティアガイドは、基礎的なことからマニアックなことまで、こちらの希望に応じて説明 をしてもらえるのが大きな魅力だ。その範囲は安土城だけでなく、周辺の安土の街や地域 まで広くカバーしている。安土へお越しの際はおすすめのガイドである。

連絡先 https://www.biwako-visitors.jp/guide/detail/238/ 

安土の観光案内 https://www.omi8.com/sightseeing/azuchi/

(※1) : 詳細は当会 HP 掲載「安土城郭研究 粟田建設訪問記」を参照

(※2) :滋賀県教育委員会編著「信長の城と城下町 発掘20年の記録」石垣~幻の穴太積み

(※3) :木戸雅寿氏著「天下布武の城 安土城 新潮社」、「よみがえる安土城 吉川弘文館」

(※4) :公益財団方針日本城郭協会公認 城びと 【超入門!お城セミナー】城を造るにはどれくらい費用や期間がかかるの? (shirobito.jp)

(※5) : asitaka-junya 安土城復元案「原図は天主計画時のもの」天守指図・「指図」平面と天主台 (asitaka.com)

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