当会のYouTubeでもずっと取り上げていますが、江戸時代に加賀藩の池上右平に描かれたとされる『天守指図』は安土城の復元案を検討する上で超重要な資料です。ただ、本当にそれが安土城を描いたものか?池上右平とは信用できる人物をなのか?を示す根拠が無いという批判を受けることがあります。

今回は池上家をはじめとした『天守指図』にまつわる人物を訪ねながら、天守指図の信憑性について検証を行いました!!

安土城『天守指図』を巡って

安土城再建を夢見る会 小川 守

安土城復元案

当会にとって『天守指図』は非常に重要な史料だ。なぜなら、内藤昌氏が提唱する安土城復元案のもととなった設計図ともいうべき古文書だからである。この『天守指図』なるもの、名古屋工業大学工学部教授の内藤昌氏が、昭和44年(1969)建築史に関する史料を調査していた時に、静嘉堂文庫という和漢の古典を収蔵している専門図書館で偶然に発見したのである。それは、江戸時代に池上右平という加賀藩の作事奉行がその原本を書き写し、それをまた4代後の池上延世(のぶつぐ)という人が透写したものである。 イメージは下の図のような巻物だ。私は現物を見たことは無いので、あくまでもイメージとしてとらえていただきたい。最終ページに、少し詳しいイメージを載せておく。

この図の右2つを見ると、不等辺八角形になっているのが分かる。これを見た内藤氏は、安土城の天主台(石垣)の形状に酷似していることから、「もしかして・・・」と直感したようだ。しかしながら、これだけを根拠に安土城の図面と断定するわけにもいかない。そもそも標題は『天守指図』であり、どこにも信長や安土城を示唆する文字が無いのだ。そこで、署名している池上右平なる人物の特定や、これを再度書き写した池上延世という人物も特定し、信長の家臣だった太田牛一の「信長公記」との突合せを行うことで検証を進めた。

『信長公記』とは、異本が多いのも事実だが、牛一が記した初期のものは第一級の史料だ。この中の「安土山御天主の次第」という段に、安土城築城の様子や、完成後間もない頃の天主内部の部屋割りや内装が記録されている。牛一は実際に天主内部を見たことは無いのだが、京都奉行の村井貞勝が、信長自ら内部を案内された時に書き留めておいたものを参考にしている。文字で表現しているだけなのだが情報量は意外と多い。内装の壁画の詳細に至っては、信長公記や『天守指図』に記されたメモのような記述だけでなく、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」のほか、様々な美術資料を調査し特定していった。その努力と力量は、どの研究者も及ばないと言われている。

満を持した形で、昭和51年に『國華』という本に、「安土城の研究(上)第987号、(下)第988号」として発表したのである。当時から安土城は「幻の城」という位置付けで、その姿かたちは謎のままであった。この発表によって建築学会に大きな風穴が開けただけでなく、社会的にも一大センセーションを巻き起こしたのである。

ところが翌年これに「待った」がかかった。東京大学工学部出身の宮上茂隆氏が、同じく『國華』に、「安土城天守の復元とその史料に就いて(上)―内藤昌氏「安土城の研究」に対する疑問― 998号、(下)999号」として独自の復元案を発表したのだ。宮上氏はここで内藤案の批判をしているのだが、かなり手厳しく、要約すると「『天守指図』は到底信頼できる資料ではなく、無価値に等しい」とか、「右平が『信長公記』やその他遺構の資料をもとに想像で書いた」といったものだ。これを機に学会内は二分されることとなり、現時点でも未決着のままだ。残念なことに両先生方はすでに故人となられているため、今後の動向もはっきりとしていない。

安土城は日本城郭建築の魁であり、復元したいという希望は非常に多い。滋賀県は、一時は内藤案で復元可能と動いたのだが、学会で統一された復元案が無い状況では、国としても復元を承認することは難しい。
そのため、平成元年から20年の歳月をかけ県が安土城跡の発掘調査を行ったのだが、主郭部や大手道周辺の一部が解明されただけで、全貌把握にはほど遠い。まさしく「幻の城」なのである。

そこで今回は、この『天守指図』にまつわる人物を訪ねながら、その位置付けについて考えてみたいと思う。様々な人物や家あるいは専門用語が登場するため、なじみの薄い方にもなるべく分かりやすく伝わるように進めたのでお付き合い願いたい。

池上右平(‐1712)

そもそも、「池上右平って誰?」と思う読者もおられるだろう。加賀八家奥村家の作事奉行池上家の第三代だ。池上家の初代は池上新左衛門政直という人物で、いかにも強そうな名前だ。それもそのはずで、織田信長や前田利家に早くから仕えており、高級建設官僚として活躍していたという。右平は実は栗林家から養子に来ている。栗林仁左衛門という加賀藩の御大工の次男で、兄は栗林又七。御大工の家から格上の作事奉行の家に来ているので、右平は非常に優秀であったことは間違いない。当時の加賀藩の建築に関わる身分は、作事奉行の下に、御大工頭―御大工―扶持方大工―大工肝煎―棟梁大工の序列があった。

養子に入ってしばらくしてから、右平は突然 荻原新左衛門という名前に変わっている。最近の研究によってその理由が明確になったのだが、なんと、兄の又七が江戸で重大事件を起こし自害してしまった。
その事件に連座されられて、右平は御役御免というえらい目に合ったのだ。連座させられたのは右平だけでなく、栗林家は断絶の処分を受けており、相当大きな事件だったようだ。

しかし、彼の上役である加賀藩の家老奥村時成は、右平の有能さをよほど高く買っていたらしい。ほとぼりが冷めるのを待って、荻原新左衛門と改名して新規登用の形をとったのだ。右平にとっては救われた思いであったに違いない。実家での不祥事が原因で池上の名前が途絶えることとなり、責任を大きく感じていたであろう。そのため、右平は以前にもまして主君や池上家に恩を返すべく、また加賀藩建築技術の発展にむけ、並々ならぬ努力をしたことは想像に難くない。後世の努力も相当なものだったと思われる。昔の事件が忘れられた頃合いを見計らって、第五代 權六郎和住の代でめでたく池上家を名乗ることが許されている。扶持も元の6割程度は戻ったという話だ。

当時の「家名」は、現在の私たちには想像が及ばないほど重要であった。この件と関係性は全くないが、「命を惜しむな、名こそ惜しめ」という坂東武者の言葉を思い出した。

池上延世(‐1789)

この人もまた、御大工成田家から来た養子で、右平から下って第七代である。加賀藩の建築関係の家は、相互に姻戚関係を持つケースが多く、養子縁組も行い優秀な人材の育成と活用をしていたようである。

延世もすごくできた人のようで、若い時代には京都建仁寺流の中井家へ出向いており、作事奉行としての修行を積んでいる。その後江戸にも出て古今の建築に通じたとある。現存の『天守指図』は、この延世が右平のものを再度書き写したものなのだ。

延世はとりわけ技術の伝承に力を入れていたようで、池上家以外の技術書も精力的に書写している。延世の残した史料の量は膨大で、200点近くが静嘉堂文庫に収蔵されており、内容も多岐にわたっており、質の高いものが多い。近年、竹中大工道具館に所蔵された黒田家に由来する文書が上記の池上家文書に酷似していることが分かった。それは、黒田家の『黒田宗信伝来文書』の書写なのだが、この文書が『天守指図』の考察に非常に重要な役割を果たしているのだ。

黒田宗信(甚七)

突然現れた黒田宗信だが、この黒田家も加賀藩御大工の家系であり、池上家とも遠い親戚関係にある。ここで、池上家と黒田家の関係を表した系図を示す。赤枠で囲ったのは主要な登場人物である。

皆さんは、東京本郷にある東大の赤門はご存知だろう。ここは加賀藩の江戸上屋敷があった場所だ。この上屋敷が火災で焼失した後、再建される時に黒田宗信は加賀から大工棟梁職として江戸に滞在している。宗信もかなり仕事に熱心だった人のようで、この期間に江戸建仁寺流の甲良宗賀という人から、甲良家に伝わる建築の技術書を書き写しているのだ。前出の『黒田宗信伝来文書』である。

この甲良宗賀という人、江戸建仁寺流の第三代だが、「江戸幕府作事方大棟梁」というすごく高い肩書を持っている。それもそのはずで、幕府の重要工事を30件以上手掛けていて、江戸城の各普請や元禄期の日光東照宮造替修復を手掛け、晩年には長野善光寺本堂(現存)も造り、その実績は輝かしい。

建仁寺流には、京都、江戸、加賀の三派がある。その歴史は、鎌倉初期の建仁寺を創建した栄西禅師に結び付く。その後寺院建築の一大流派となり、信長・秀吉の天正期に先の三派に分かれた。

なぜ、加賀藩の御大工の黒田宗信が幕府作事方大棟梁の甲良宗賀に会えることができたのかというと、祖父の太衛門正重が、若かった頃に幕府作事方大棟梁の平内正信に弟子入りしており、その時からの親交によるものと思われる。

黒田宗信は僅か1年半ほどの間に11巻を書き写しており、その製図技量は相当に高かったようだ。さらに奥書には、甲良宗賀の直筆で「黒田宗信の懇望により予懐中の書を写せしめ 交合を懸けて相違なし」という印可が残っている。「交合を懸けて相違なし」とは、原本と相互チェックをして、正確に書き写していることを保証するという意味だ。

池上家の伝統

以上から、池上家の経緯並びに加賀藩の御大工の関係をまとめると以下のようになる。

・池上家は加賀八家奥村家の作事奉行を務めており、建仁寺流の正当な流れを汲む建築の専門家である。

・池上右平も延世も他家からの養子であるが、経緯を見る限り相当な努力をしていたことが窺える。特に右平は作事奉行としての信用が高かったため、兄の不祥事で一時罷免されたが、後に姓名を変更したかたちで採用されており、この点は見逃すべきでない。

・池上延世はことのほか建築技術の伝承に熱心で、多くの技術書の書写を行っている。

・黒田宗信の例でも分かるように、作事奉行の池上家に限らず御大工の家に渡るまで、加賀藩の建築に関わる家は加賀建仁寺流の伝統を守ることに熱心であったと言える。その系統を絶やさないためにも、婚姻や養子縁組によって人材の育成にも力を入れていた。

ここで、仕事の質の高さを見てみよう。池上延世が書き写したものと黒田家の文書の一部を下に示す。
比較してみると、一部省略して異なっている部分はあるものの、延世は忠実に黒田家の書を書き写しているのが分かる。写真やコピー機が無い時代、筆でこのような細かな写しを作るのは相当な技術と根気や集中力が必要だったに違いない。加賀藩作事奉行としての、並々ならぬ責任感を感じとることができる。しかも署名をし、巻物として正式文書として残すのであるから、ここに嘘偽りが入り込む余地は皆無だ。これこそが池上家に伝わる伝統・仕事の質の高さを言い表しているとは言えないだろうか。

今の時代、製図はCADというコンピューターツールを駆使して行うため、出来栄えにおいては個人差が無くなった。そのことは素晴らしい進歩なのだが、結果として図面に味気無さを感じるのは、私が単にノスタルジーに浸っているだけなのだろうか。全くの余談なのだが、私は機械工学を学んだ経験から、昔の機械図面を読むのが好きだ。特に蒸気機関の父であるJames Wattの図面は気に入っている。はなはだ実用的なものではあるが、そこにWattの設計思想や魂を感じることができるとともに、当時の技術レベルをも読み取ることが可能である。時々Wattの本をめくっては自分なりの新たな発見を楽しんでいる。

『天守指図』の背景と経緯

そもそも、『天守指図』の祖本となる図面はどのようにして池上家へ伝わったのか。これには大いに興味がそそられる。安土城は天正四年(1576)に着工されており、岡部又右衛門が信長の意を具現化し、設計施工したものだ。祖本の伝来については内藤氏が歴史的考証をしており、以下のルートが考えられるという。

  • 安土城築城大棟梁 岡部又右衛門からの伝来:初代池上新左衛門政直の経緯から、織田家→前田家→池上家へと伝えられた。
  • 安土城普請奉行丹羽長秀からの伝来:丹羽長秀が所有していた祖本あるいはそれに近いものを、太田牛一が入手し、信長公記の参考とした。その後、加賀松任に移住した後に池上家へ伝えられた。
  • 建仁寺流大工からの伝来:建仁寺流の大工が安土城建築に関わっていたことは可能性が高く、その折に、安土城天主に関する技術資料が加賀建仁寺流の家を通じて池上家へ伝えられた。

いずれにしても、池上家の初代が安土城築城に深く関わっていたことは間違いなく、『天守指図』の祖本が池上家へ渡っていた可能性は高いということだ。

安土城を筆頭に、秀吉の時代から徳川の初期にかけて天守の建設ラッシュが起こったのだが、それは僅か15年ほどの期間でしかない。その後は、江戸幕府による一国一城令によって下火になっている。この間の天守は、戦闘を意識した設計になっており、内部の装飾は無い。したがって、信長の居城であった安土城天主―平和の象徴・見せる天主―とは、その目的が大きく変わってしまっている。そのため、安土城天主の図面は表に出ることもなく、ひっそりと池上家で眠っていたと思えるのである。これはあながち的外れな考察ではないだろう。

『天守指図』の奥書には、池上右平の署名と墨でかたどった印影が残っていることから、作成は前出の又七の事件以前のものであることが分かる。
右平は『天守指図』をどうとらえていたであろうか。単なる業務として書写したと考えると、安土城の図面と認識していたかどうかは疑問が残ってしまう。

しかし私は、右平はその重要性を強く認識していたと考える。初代政直は、信長、前田利家に仕えたという事からも、右平は図面の謂われを直接聞いていたに違いない。そうでなくても、第二代から聞いた可能性というのも考えられる。初代の奮闘話も美談として伝えられていたであろう。図面は装丁されておらず、痛みも進んでいたかもしれない。右平はその価値を知り尽くしていたからこそ、自筆の署名と印を残し、あえて『天守指図』と記名し装丁したのではないだろうか。幕府への配慮もあり、信長との関係をあえて隠したと考えるのが自然に思える。

延世の時代には少し薄れはしたであろうが、加賀藩作事奉行の家柄として、安土城とその図面の意味は伝わっていたと思われる。

真実はどうだったか、池上家の面々のほくそ笑む顔が浮かんできそうだ。

『天守指図』は想像で書けたのか

焼失後多少の火事場整理はあっただろうが、安土城天主は秀吉の時代以降放置されていたと言われる。また徳川の時代には、彦根城の築城にあたり、多くの石が転用されていることも分かっている。当然主郭部に使用されている立派な大石や隅角部の石は持ち出されており、以来自然に崩れるに任せる状態だった。

時代を下って昭和15年、国によって安土城天主の発掘調査が行われている。この時の天主の状態が報告されており、右のような写真が残っている。これを見ると天主台は小山のような状態だった。炎上後100年近くも経った右平の時も、それほど大きな違いはなかったと思われる。昭和の調査で初めて天主台の形状と石垣内部の礎石の状態が明確になったのである。出土品から、後年幾度かに渡って人が立ち入った痕跡が見つかっているが、それらは部分的なものである。昭和の発掘調査が最初の天主台の全面的発掘であったことは間違いない。

このような状況を踏まえると、右平が特別な許可を得て天主台の形状を測量し、『信長公記』や『安土日記』のような資料や当時の遺構の調査を参考にしたとしても、不等辺八角形の天主台の図面を正確に作成するのは不可能であったことが分かる。また、『天守指図』との整合性であるが、柱の間隔を信長が使用した7尺と置くと、発掘された礎石の位置と一致することも検証されており、大きな矛盾は生じていない。

ここで、江戸時代の政治事情について考えてみよう。江戸時代の中期、いくら太平の世とはいえ、他藩の者が自由に歩き回りそれ以外の藩の測量調査することはあり得ない。筆者の知る限りでは、「水戸黄門漫遊記」、「奥の細道」(真実は分からないが芭蕉隠密説による)、伊能忠敬の測量調査くらいである。たとえ隠密で調査をしたとしても、明らかになれば幕府から謀反の嫌疑がかかることは十分考えられるし、加賀藩として大きな責任問題となる。何しろ加賀藩は江戸幕府に次ぐ最大の外様大名だ。幕府としても、安土山で織田家の末裔が信長の霊廟を守ることを認めていることから、その摠見寺の領内を加賀藩が調査することに関して許可が下りるとは考え難い。加賀藩にとっても、それほどまでの危険を冒して、安土城の調査を実施する価値は皆無であったと考えられる。

『天守指図』の信憑性

あくまでも池上家の経歴を通じての考察になるのだが、右平も延世も、加賀八家奥村家の作事奉行としての池上家の伝統をしっかりと守っていた姿勢がうかがえる。「命を懸けて」というのは大袈裟かも知れないが、書写に自身の署名と押印をし、正式文書として残しているのである。作事奉行という職務上、その責任は大きかったはずで、どう見ても、ここに想像や偽りが入り込む余地は無いことは確かである。また、右平が安土城跡に登って測量を行い、『信長公記』などを参考に想像を加えて作図したというのも、当時の事情から考えて可能性はほぼ無いと言える。

『天守指図』の信憑性について、これをもって立証したと言えるものではないが、安土城復元に対し信用に足る史料としての位置付けをより確かなものにできたと考える。祖本(原図)が発見されない限り、類似の新史料などによって検証する他に方法はないであろう。

謝辞

3月の年度末でお忙しい中にも関わらず、坂本学芸部長と安田学芸員には1時間程の時間をいただくことができた。私は建築史に関しては全くの素人であるにもかかわらず、親切に説明をしてくださった。そのうえ、理解の助けにと、坂本氏のまとめられた論考、および正見泰氏の加賀藩の大工史料に関する研究資料のコピーもいただいた。これらの資料のおかげで、内藤昌氏の著書、並びに名古屋工業大学名誉教授の河田氏の資料などを参考にして、総合的にまとめることができた。

何よりも、池上家を中心に加賀藩の建築に関わる人物像に触れることができたのは、私にとって大きな喜びとなり力となった事は事実である。坂本氏と安田氏にこの場を借りて厚くお礼を申し上げたい。また、正見氏は石川県金沢城調査研究所の所員だったのだが、若くして故人となられている。このような地道ではあるが貴重な調査研究の成果を残されたことに、心から感謝を申しあげるとともにご冥福をお祈りする。

最後に

竹中大工道具館を訪ねたのは、3月の初旬でまだ肌寒い時期だった。冒頭でも述べたが、『天守指図』はじめ静嘉堂文庫の史料や竹中大工道具館の『黒田宗信伝来文書』の実物を未だ見たことが無い。機会があれば是非拝見してみたい。筆跡から伝わってくる技術者の熱量が読み取れるだろうし、本物でしか味わえない、右平や延世の意思が伝わってくるものと信じている。

竹中大工道具館は、JR新神戸駅から徒歩で5分のところに位置している。日本の木造建築の技術を一堂にまとめており、神社やお寺から住宅家屋まで技術の素晴らしさしさを理解できる工夫がされている。民族博物館にあるような大工道具があったり、実際の木と木を組み合わせる木組みの体験展示があったりでおもしろい。

新幹線の駅に近いにも拘らず、敷地内は静かな雰囲気で異次元に入った感じがする。

私が子供だった頃は木造住宅が主で、建築も現場組みが多かった。大工さんが鉋をかけたり、柱と梁を組んだりするのを、学校帰りに飽きもせずに見ていたものだ。木造建築に興味のある方は是非訪れてみてはいかが。

竹中大工道具館 (dougukan.jp)

参考資料

※ <研究ノート>[資料紹介]黒田家伝来文書について 坂本忠規 建築史学 第71号2018年9月
P80‐P81  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsahj/71/0/71_80/_pdf/-char/ja

※ <研究ノート>『黒田宗信伝来文書』の筆者について 坂本忠規 建築史学 第79号2022年9月

     P82‐P85

※ 加賀藩の大工資料の信頼性に関する考察(上)-清水文庫・渡部家文書を中心にー 正見泰
     研究紀要 金沢城研究 第10号 平成24年3月 石川県金沢城調査研究所 P40-P41

※ 加賀藩の大工資料の信頼性に関する考察(下)-清水文庫・渡部家文書を中心にー 正見泰
     研究紀要 金沢城研究 第11号 平成25年3月 石川県金沢城調査研究所 P81-P87

※ 復元安土城 内藤昌 講談社 P152‐P166

※ 国華 第987号 安土城の研究(上) 第989号 同(下) 内藤昌 国華社

※ 国華 第998号 安土城天主の復元とその史料に就いて(上) 第999号 同(下) 宮上茂隆 国華社

※ 建築学会2021年度大会(東海)発表資料 池上家伝来の『天守指図』の信憑性 河田克博、清水隆宏

天守指図のイメージ 内藤昌「復元安土城」から転載加工

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